Skip to main content

Posts

折りたたみ北京 ~ 現代中国SFアンソロジー

『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』 ケン・リュウによる中国SFアンソロジー。SFも他の文学ジャンル同様、その時代、その国の人々の考えを映し出す鏡です。表題作である郝 景芳(ハオ・ジンファン)の「折りたたみ北京」では、折りたたまれ続ける都市に文字通り分断され届かぬ人々の思いが丁寧に描写されます。 陳楸帆(チェン・チウファン)の3篇は、科学技術に人間性が浸食されていくような状況において、なお根源的な欲望、喜怒哀楽を描いた作品。「鼠年」における青年兵の葛藤、それをあざ笑うテクノロジー企業の暴虐な意思。時間の流れ、その感じ方さえ経済に利用される格差社会を描いた「麗江の魚」。テクノロジーを越えた愛憎を切り取る「沙嘴の花」。どれも絶品。 夏笳(シア・ジア)の3篇は、少しやさしくすれば子ども向けSF童話になりそうで、その実、内在しているものはハード。「お化けには学校も試験も何にもない」ことの哀しみを切り取る「百鬼夜行街」、テクノロジーを利用した世界と祖父、祖父と孫の斬新なふれあい、「童童(トントン)の夏」。3つ目の「竜馬夜行」で蝙蝠が語るセリフがいいです。 「好きにしていいのよ。人がいなくなっても世界は続く。ほら、今夜の月はこんなにきれい。歌いたければ歌えばいいし、歌いたくなければ寝ていればいい。歌えば世界が聞く。黙すれば万物の歌が聞こえる」 劉慈欣(リウ・ツーシン)の「神様の介護係」には恐れ入った。高齢社会の問題を揶揄した短編かな?と思ったら、終盤に神様が明かす宇宙の絶望的な秘密と、これ以上なくロマンチックな宇宙の最期。完璧です。

アメリカ社会においてインド出身であること

『ファミリー・ライフ 』アキール・シャルマ著 小野正嗣訳 インド・デリー生まれニューヨーク在住の作家アキール・シャルマ(Sharma,Akhil)の自伝的長編『Family Life』を読みました。 アメリカ社会においてインド出身であること、脳挫傷で寝たきりになった兄を家族で介護しなければならないこと、両親の確執の果てに父がアルコール依存症になってしまったこと、それらを通して少年の視点で、人と人が適切に分かり合うことがいかに難しく稀有なことかが描かれている、そう思いました。 医療福祉に携わる人、身近なひとの介護やアルコールの問題を経験したひとだけでなく万人にお勧めしたいです。家族の普遍的な問題、地域社会のことがら、日常的な差別、いじめ、思春期の葛藤、さまざまなことに通じると思います。 男がひとり、妻と別れた話をした。息子にバースデーカードを送りたいときには、子ども達との接触が許されていないので、保護司の前で書かなければならないという。こうした話のどこが飲酒と関係があるのか僕には理解できなかった。こんな振る舞いをしているのに、それでも白人は僕らより偉いのだと思うとだんだん腹が立ってきた。(P181) 「ここにはいい医者がいる」と父は言った。「看護師もとてもいい。なに、ありふれた問題なんだよ、この飲酒ってやつはさ」、父はほほえみ、自信ありげに喋っていた。その自身ゆえに、父が妄想にとらわれているように見えた。(中略)父が喋れば喋るほど、父を失っていく気がした。(P174) 「命より大切な兄貴」と僕は言ってみた。(中略)メロドラマ的なことを口にすれば、子どもじみた愚かしいことを言っているように聞こえるし、そうすれば自分が元気であることの幸運を責められずに済むだろう。(P120)

日常にして奇妙な異世界を旅する4冊

『小型哺乳類館』トマス・ピアース 著 真田由美子訳 トマス・ピアース(Thomas Pierce)の処女短編集を読みました。1982年サウスカロライナ州生まれ、バージニア大学創作家卒、全米図書協会の「35歳未満の注目作家」に選ばれています。 『中国行きのスロウ・ボート』を読み返したくなりました。初期の村上春樹を思い起こさせるヴォイス(文体)。簡潔にして普遍、日常にして奇妙な異世界。 アメリカの公共ラジオ局NPRで5年間プロデューサーを務めた経歴ゆえか、ヴァン・モリソン(Van Morrison)を子守唄に口ずさんだり、随所にロックの固有名詞が挿入される辺りも嬉しいけれど、何より不思議なメタファーの使い方が秀逸。聖書的世界観と現代社会の在りようの奇妙な”ねじれ”に根ざしています。 TVのヴァラエティー番組で蘇ったクローンのマンモス。それを息子に頼まれて飼育するはめになるお婆さんの話(「シャーリー・テンプル3号」)、恋人の夢の中でまざまざと息づく人物を探す内に人間関係が錯綜してしまう「実在のアラン・ガス」、愛人との間にできた息子にまつまる嫉妬とかすかな希望(「未だいたらぬフィーリクス」)、恋人の息子との確執と絶滅危惧種の猿にまつまる小品で表題作「小型哺乳類館」、死んだ弟が未知のウイルスの感染源であり国家間を船で移動する「追ってご連絡差し上げます」などなど。 言い表しがたい孤独、寂寥、虚無感と、周囲で渦巻く人々の思惑。共時的に進行していくものごとは、結論を断定しないからこそ、後味が尾を引きます。自分もかつてこんなことを体験したかもしれない。あるいは全く無関係かもしれない。 2018年1月に初の長編『The Afterlives』が上梓されました。 『SOLO』ラーナー・ダスグプタ著 西田英恵訳 母親、恋人、そして大切な親友への想い。科学への情熱、音楽への憧憬。主流でないこと、世界を動かすこと、誰かを愛すること、愛されること、安心して甘えられること。もし彼が(彼女が)生きていたら。母さんに甘え(を支え)ることができていたら。たくさんのifの物語。 イギリス・カンタベリー生まれのインド系英国人作家ラーナ・ダスグプタ(Rana Dasgupta)による2部制の長編小説です。第1部が現実、第2部が白昼夢の世界を描いたという意味で...

人種差別とSF / ファンタジーにまつわる4冊

『ネバーホーム』 レアード・ハント 著 柴田元幸 訳 わたしたちはみんな死を下着に着ていた。 わたしの馬は、わたしたち両方が受けた銃弾の夢を見ているんだ。 世界がぜったいあたしを見ない場所をどう見つけるか、あたし知ってるのよ。あたし、影のなかもあるけるし、光のなかもあるけるのよ。 うちの亭主が「希望を虐殺のエサにしに」とか言って出ていったときにフィドル置いていったのよ この男が怖いのは銃弾ではないからだ。怖いのは太陽であり、大地であり、空気であり、それ全部であり、空だからだ。 なんだか彫像みたいだ。あらゆる時代を貫く、痛みの像。 (それぞれ、本文から抜粋)  レアード・ハント(Laird Hunt) 著 柴田元幸 訳『ネバーホーム』(Never Home)は、南北戦争に従軍した女性兵士の物語です。過去や幻が交錯し、正気と狂気の区別もあいまいになる。野蛮な描写のなかに哀しいくらいロマンチックな風景が重なる。物語とはこういうものだと思います。わけがわからないけれど夢中になって読んでしまう。 『ハックルベリー・フィンの冒けん』マーク・トウェイン 著 柴田元幸訳 ヘミングウェイは「今日のアメリカ文学はすべてマーク・トウェインのハックルベリー・フィンという1冊の本から出ている」と評したそうです。 児童文学の強みは、子どもの無邪気な視点でもって大人の世界を痛烈に皮肉ったり批判できることかもしれないです。 トム・ソーヤの冒険で大金を手に入れた浮浪児ハックのところへ、アルコール依存症の父親が金をせしめにやってきたり。旅の途中で王だの侯爵だの名乗る詐欺師たちに出会うと、こいつら父親に似てるな、嘘つきだなとハックは勘づくけれど、でも、「世の王侯貴族がこのペテン師どもとどこが違う? むしろこいつらのほうがマシかもしれない」とさえ思ってしまう。 そもそもアメリカという国自体が、ネイティヴ・アメリカン(インディアン)からの簒奪と、アフリカから連れてきた黒人(ニガー、くろんぼ)の酷使で作られていったわけで。それを野生児ハックの視点でさらっと指摘してしまう。いつだって「王様は裸だ」と叫ぶのは、常識や因習に縛られない子どもたちです。 『H・P・ラヴクラフト』 ミシェル・ウエルベック 著 星埜守之 訳 クトゥルフ神話体系...

JOE MEEK - I Hear New World(私は新しい世界を聴いた)

真の意味で自分以外の他者を知る、そして知りえた何かを表現するということは本来、命がけの行為だ。デヴィッド・ボウイが「Space Oddity」で歌ったように、地球の外側からこの世界の真実を知ってしまった日には、広大な何もない宇宙で発狂するかもしれない。 このアルバムの主人公ジョー・ミークは、バス・ルーム・サウンドと呼ばれる独自の音世界を構築した、イギリスのプロデューサーである。1960年当時、他に類を見なかったオーヴァー・ダビングやコンプレッション、派手なリヴァーブ、テープ・ループを駆使したサウンドは、後世においてイギリスのフィル・スペクターとも形容された。彼は楽器を弾けないどころか譜面さえまともに読めなかったという。しかし鼻歌を録音したテープをミュージシャンに聞かせ、演奏させた音を元に多重録音し編集した。いわばラップトップ・アーティストの走りであり、今なら打ち込みで再現する音を自力で創り上げていった。対人接触を避け孤独を好む性質だった彼は、自宅録音で、より風変わりな音を探し求めた。ついには月面旅行を、宇宙空間を描き出すコンセプト・アルバムを作ろうと思いつく。音楽における挑戦とはしばしば新しい世界を創造する試みでもある。とはいえ人間が作った地上の装置で、はたして宇宙の摂理を表現できるのだろうか? 高速回転させた虫声のようなヴォーカル・ハーモニーが響く「I Hear A New World」で本作は幕を開ける。マラカスと哀愁のスティール・ギターで月の軌道をなぞる「Orbit Around The Moon」から3曲目「Moon Entry Of The Globbots」で月面のパレードに遭遇する。陽気な声と青い顔の月面人。4~6曲目にかけて彼らのラヴ・ダンス(求愛の踊り)が続く。弦楽器がとぼけた泡のような光を表現する本作のハイライトだ。7曲目「Glob Waterfall」では月の奥深くから湧き上がる滝を見る。続く「Magnetic Field」で無重力における奇妙キテレツな動きに面くらい、そして9曲目「Valley Of The Saroos」で月の谷間に住む緑色の人々に出会う。気の抜けるリズムにずるずる引き込まれて、もがいたあげく我々の宇宙船は地球に帰れなくなる。ラストの「Valley Of No Return」は穏やかでどこか安堵感ただよう結末を鳴らす...

The Cars~クールなんだけど、同時にいい意味で、陽気でアホっぽくて、少しだけ哀しい音楽

The Cars のベスト盤を聴いています。 Roxy Music を彷彿とさせるリック・オケイセックのヴォーカルとエレクトロ・サウンド、そこにエリオット・イーストンのいかにもアメリカ的な渋いギターが絡み合う。ドラムスのデヴィッド・ロビンスンは Modern Lovers のオリジナル・メンバー。 76年ボストンで結成。50年代のロカビリーと80年代ニュー・ウェイヴを先取りして融合させたかのようなアプローチは、 Devo や Talking Heads とも比較されたようです。加えて彼らには QUEEN のようなゴージャスさもある。実際に初期4作はQUEEN同様ロイ・トーマス・ベイカーのプロデュース。 リック・オケイセックがWEEZERをプロデュースしていたり、後のパワーポップ勢にも大きな影響を及ぼしているとか。クールなんだけど、同時にいい意味で、陽気でアホっぽくて、少しだけ哀しい音楽。 YouTube  The Cars "You Might Think" 

個人的な感覚を掘り下げると ~ Nav Katze、CRUNCH、OGRE YOU ASSHOLE

わざとらしいこと、嫌いです。人目を引くような文章を書いて、読んでくれる人がいなければこの文章がムダなように、そりゃあ、聴く人がいなければ音楽は成立しません。 それでも「こんなポップな曲書く俺、天才でしょ?」とドヤ顔で演奏されるのは好きじゃない。ときには先人に対するリスペクトのない借用さえ感じてしまって。 そのメロディーを選んだことに彼なりの必然性があればいいけれど、「お前らが好きな曲を演奏してやる」という態度がにじみ出ているのは気持ちよくない。誰かが喜ぶ曲を演奏する、確かに大切です。でもそれは自分自身の中から自然に出てきたものでないとウソになる。大げさに言えばだますことになるかもしれません。 Nav Katze(ナーヴ・カッツェ)のアルバムを聴いています。 Nav Katze『新月』(1991) ドイツ語で「神経質な猫」を意味する名を冠したこのバンド、主に80年代後半から90年代にかけて活躍した女性デュオです。 最初はポリスに影響されたスリー・ピースで、ムーンライダーズの岡田徹も関わっていたとか。それからドラマーが脱退。以降はよりトラッド色、ワールド色を強め、アンビエント、テクノに向かっていく。リミックス・アルバムにはエイフェックス・ツインも起用されています。 88年のTVライヴをYouTube で観ることができます。彼女らの音楽は誠実な気がします。自分のやりたいことを、ただ淡々と演奏している。純粋に研ぎ澄まされていく。 この感じは例えば、 たまが日常の陰を照らし出すあの感じ 、あるいは syrup16g『Free Throw』で「翌日」 が永遠になる瞬間。 薄暗い中できらめく淡い光。 最近のバンドだとどうでしょう。 例えばやはり女性スリーピースのCRUNCH。 岐阜のフェスでのライヴ映像をYouTubeで観ることができ ますが、たたずまいも似ていて、それこそNav Katzeと同じ80年代後半のポストパンク・バンドにみえる瞬間もあれば、今の時代でしかありえない空気も感じられます。 あるいは、活動初期はCRUNCHと同じ名古屋で活動していた長野の OGRE YOU ASSHOLE 。 フォークから、ブルーアイド・ソウル、アフロ・ファンク、あるいは全て、時に何かしら、同時に何もない。大正から昭和...

カズオ・イシグロ - 忘れられた巨人(The Buried Giant)

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』が10月14日 ハヤカワepi文庫 に。まるでノーベル賞を予見していたかのようなタイミングです。 民族とその記憶についての物語。その詳細については すでに多くの場所で 語られていますから、少し趣旨の違う話をします。 旅する老夫婦アクセルとベアトリスが主人公ではあるけれど、旅の途中で出会うサクソン人の戦士ウィスタンやブリトン人の騎士ガウェインにもそれぞれ深い物語があります。そして村を追われたエドウィン少年の成長も大事な柱です。 戦争で足を失い厄介者扱いされている老戦士がいます。村でただ一人彼だけがエドウィン少年の戦士としての才能を見抜く。みなしごでいじめられている彼に対して、「お前は誰もが恐れるような戦士になるだろう」と告げる。 この本は、民族の対立、戦争の歴史、憎悪の連鎖と記憶についての物語ですが、同時にブリトン人の老夫婦からサクソン人のエドウィン少年へ人種を越えて何かが受け継がれる物語でもあります。

Gofish - 肺は正常に血液に酸素を送って

Photo :  Tomoya Miura Gofishの新曲「肺」 がすばらしい。テライショウタさんは名古屋のロック・バンド Niceview のシンガー / ギタリストでもあります。 誰もが思い当たる心象風景を歌っているのですが、「肺は正常に血液に酸素を送って / 息をとめて 息を」というコーラスの歌詞が特に印象的です。必死に走った後の乱れる呼吸。肺は正常に働いている。だから休んでいい、安心していい。そういう風に聞こえます。 英語で「息を止める」は「Hold my (your) breath」。日本人の発想では息を抱きしめる、ホールドして固定する。赤ん坊を抱きかかえるようなニュアンスに感じられます。 精神的、あるいは身体的ストレスで過呼吸(パニック障害の一症状)に陥っている場合、息をゆっくりする、呼吸の頻度を遅くする、一時的に息を止めることで、呼吸困難や動悸が収まっていきます。色々と想像の余地がある歌詞です。 海外の友人がこの曲を気に入ったようなのでおおざっぱな英訳も教えました。「肺」は日本語の音でハイ→ 灰(すすけたという歌詞が出てくる)、はい(YES)と同じ音。日本語では必ずしも主語を明確にしなくていい。しかし英訳では推測で主語を加えた。肺は歌っている人の肺かもしれないし、私やあなたや誰かの肺かもしれません。 日本語はあいまいで、時に不便で、それ故に美しいです。 実際の歌詞はSoundCloudをご参照下さい。この英訳は実際の意味と解釈のズレがあるかもしれません 肺(The Lungs) Between the swollen night and the shrunk morning What I worried was that it would rain in the afternoon Wearing a dull blue jacket I am running to the meeting place Because I got off at a bus stop one before where I should do My lungs are properly feeding oxygen to bloods I am holding my breathing...

夏目漱石 - 抗夫

「それは生きるか死ぬかの体験です。そしてそこからなんとか出てきて、またもとの地上の生活に戻っていく。でも主人公がそういった体験からなにか教訓を得たとか、そこで生きかたが変わったとか、そういうことはとくに書かれていない。」 と 『海辺のカフカ』 で評されているけれど。これはある種の反語表現だと思います。『海辺のカフカ』でカフカ少年が分け入る森の中はリンボー界(辺獄)であり、『抗夫』における深い坑道の底と対応しています。 カフカ少年も『抗夫』の主人公の青年も、そこから確かに何かを携えて戻ってくる。ただし、それは簡単には説明できない。だから書かれていないのではなく、あえて書かなかったのではないでしょうか。 さらに付け加えれば、両作品の主人公はアスペルガー / 広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)くさいことも共通しています。『抗夫』の青年についていえば、彼はシキ(抗夫の世界)の旅を通して、人との関わり方を学んでいきます。いちいちややこしい理屈をひねりながら対処法を編み出していく。自分のなかの正義と他者の正義の間に折り合いをつけるすべを学んでいきます。 特筆すべきは後半、230ページからの安さんという抗夫との出会い。彼は、主人公と境遇が近く10年前後年上、すなわち模範とすべき兄、叔父的存在として描かれています。この主人公を精神科医の笠原嘉がいうところのスチューデント・アパシー(青年期の無気力)だと考えれば、兄、叔父的存在に感化されることによって生きる方向性を見出したのです(笠原嘉『青年期』122ページ参照)。 『抗夫』はエンターティメントとしても面白いです。 『海辺のカフカ』を読んだとき、よく言われる、エディプス・コンプレックスとか発達段階の課題とか、精神分析的な素地は割とどうでもよくて、この作品で一番大切なことは、「掛け値なしに自分が大切だと、誰かに言ってもらうこと。誰かに無条件で受け入れてもらえること」だと思ったのですが、『抗夫』と併せて読むとより感動的。

TOPS - Sugar at the Gate

モントリオール出身のバンドTOPS はLAに移住し 3作目のアルバム を完成させました。リード・ヴィデオ「Petals」にはマイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナの恰好をした俳優が出演します。ヴォーカリスト/ソングライターのJane Pennyは言います。 「TOPSと一緒にいるのが本当にぴったり!という人たちに出演してもらったの。マイケルがお墓から出てきて一緒に遊んでくれたら楽しいじゃない?」 アルバムのタイトルについては 「Hours Betweenという曲の歌詞なの。ダブル・ミーニングよ。喜びや充足へのゲート、ないし人々を遠ざける障壁を意味する。人生のなかの素晴らしい物事は向こう側にあって近づけない。TOPSは明るく楽しいだけじゃなくて、世界に関して表現したいことがあるの。アルバム・タイトルは我々は何者か、どのように感じているかについて。奇妙な言葉をパッケージしてる。より深く入ってきて。それがTOPSなのよ。」 日本盤は PLANCHA より2017年6月2日発売。歌詞対訳、ボーナス・トラック追加。

ウィリアム・サローヤン - PAPA, You're Crazy

悲しみのなかで全てが赦されている。そんな気がしました。 ウィリアム・サローヤンの 『PAPA, You're Crazy』 は世界について対話する親子の物語です。繰り返しの多い、平易な英語で書かれています。 両親はどうやら別居していて、息子はお父さんと暮らしたい。お父さんは貧乏な作家で、料理の本を書いています。食べることに加えて、笑い、喜びは生きる上でとても大切な調味料。ある意味生活の全て。そんなことを親子は話し合っています。 日本語訳は伊丹十三で、ひょっとしたら 映画『タンポポ』 を作るきっかけになったのかもしれません。

コーマック・マッカーシー - The Road

「誰かに幸運を祈ることさえしないだろう」と言われた老人が、「幸運の意味なんていったい誰が知っているのかね?」と問うシーンで、自分の学生時代のことを思い出した。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード 』は、終末の世界を旅する親子のロード・ムーヴィーです。 今でもそうだが、昔の私は輪をかけてコミュニケーションがとれない若者でした。善意のつもりで言ったことをよく悪意に解釈された。 医学部に入学した1年目に病棟体験があって、大学病院を小グループで回った。消化器、代謝・内分泌内科で、その頃当然医学知識は皆無。患者さんとどう会話すべきかなんて全くわからない。 60がらみの女性(仮にAさんとする)に「良くなるように祈っています」と私は話したらしい。その日のミーティングで同級生の女性が「そういわれても私はもう良くならないんですよ」とAさんが言っていたと私に教えてくれた。同級生の男性が「祈るってお前はクリスチャンか! あー、君はもう病棟歩けないな!」と私と目を合わさず怒鳴った。同級生の女性は「ごめん、やっぱり言わなければよかった」と涙ぐんだ。 祈るという言葉自体は悪い言葉ではない。彼が指摘したのは、私の言動、態度全般が「空気を読まない、他人の気持ちを推し量れない」ことだったのだと思う。私がわざとみんなをバカにして楽しんでいるのだとさえ思っていたかもしれない。 その彼が、恋人との写真を見せてくれたことがある。養老の滝に行ったと聞いて、大学のそばにあった飲み屋のチェーン店『養老の滝』かと聞いてしまい、「アホか! なんで飲み屋で記念写真撮るんだ!」と怒られた。「きれいな彼女だね」と返すと「ああ、俺の彼女だからな」と彼はふてくされていた。 こんなエピソードなんて、『ザ・ロード 』の世界観の前には塵芥ですらない。リアル『北斗の拳』というか、終末の世界に都合のいい救世主なんていない。善い者は殺されまくるだけ。 そんな救いのない世界で、救いのない世界しか知らない少年は「まあまあだよ」とつぶやく。どんな世界だろうと、まだ自分の力で世界を切り開けない少年にとっては過酷なことは変わりないから。そう表現する他はないのかもしれない。

山尾悠子 - ラピスラズリ(Lapis lazuli)

山尾悠子が分からない。小説をざっと斜め読みする癖のある私には、彼女の密度の濃い、幾重にも折り合わされた物語は適さないのかもしれません。しかしそれでもなお求心力があって私を捉えてしまうのです。 良くも悪くも分かりすぎるのはつまらないです。伊坂幸太郎の小説を10年前までは読んでいました。今は読んでいません。分かりやすくエンターテインメントで面白い。でも、だからこそもういいかなとも思ってしまう。誤解ないように付け足すと彼の作品は涙が出るくらい感動したし、今も印象に強く残っています。 山尾悠子を読むのは私にとってある程度の苦行です。何人もの登場人物や、聞き慣れない固有名詞や奇怪な化け物がまず分からない。しかし、そこには未知の世界がある。長い歴史がある。決して出会うことのない女性の、深く個人的な体験がある。何より彼女は本当に真剣に必要に迫られてこの物語を書かなければいけなかった。 商業作家はそれで食っているのだから良くも悪くも量産しなければいけない。時には書きたくない話も、書きたくない要素も入れざるをえないだろう。山尾悠子にはそれがない。彼女の作品を読むのは苦痛で仕方ない。けれど細部に神が宿っていて私に寄り添ってくれる。懐かしい何か。文字通り神、ないし仏が居る。 子どもの頃、祖母の家に泊まって、仏壇のある座敷で寝て、戸棚から古い銅貨を掬い上げた記憶と通じるかもしれません。

コリン・ウィルソン - 宇宙ヴァンパイアー(Space Vampire)

コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』を村上春樹 / 柴田元幸の復刊文庫シリーズで読みました。 コリン・ウィルソンの代表作『アウトサイダー』はかつて日本でも広く読まれていたそうです。カミュやニーチェ、ゴッホといった芸術家、思想家の名を挙げて、社会に適合できない孤独者について論じています。 オルタナティヴ・ロック・バンドART-SCHOOLの「アウトサイダー」という曲はひょっとしてコリン・ウィルソンに由来するのではないか。『グインサーガ』で有名な栗本薫も、アウトサイダー理論からインスパイアされて、「禍つ神(織田信長やヒトラーのような戦乱を招く存在)」を思いついたのではないか。禍つ神が登場する彼女の著作『魔界水滸伝』にはクトゥルー神話の神々が出てきますが、『宇宙ヴァンパイアー』もクトゥルー神話体系に属する物語といえます。 作中に登場するヴァンパイアーは人間の創造主たる神であり、作中で語られるヴァンパイアー理論(我々のコミュニケーションはエネルギーを奪い、与え合うもの)はコリン・ウィルソン流の精神分析学であり、村上春樹の超現実的な描写にもわずかに影響を与えているかも?と思うのです。

Communions(コミュニオンズ) - 世界はとんでもなく官能的、何も先入観はいらない

「それが全てではないにせよ、The CureやThe Smithsのような80年代のバンドに影響を受けたのは間違いない。なぜかって? この時代の音楽はとてつもない壮麗さがあって、僕らも見習いたいのさ」 THE LINE OF BEST FITのインタビュー に応じて、Communions(コミュニオンズ)のフロントマンMartin Rehofは言っています。本作『Blue』はノスタルジックさに加え独自性があり、よりクリーンなサウンドに仕上がっている。「過去のEPは習作だった」と彼は考えているようです。 その通り。本作ではさらにOrange JuiceやOasis、The Stone Rosesといった偉大な先達のエッセンスを呑み込み2017年型にアップデートしたかのよう。 「Eternity」はまさにCommunionsサウンド。Rehofのギターが織りなす甘美で中性的な調べといったら! Rehofによれば「僕らは自分たちの長所と欠点をより自覚した。それぞれがバンド内での役割を担って、結果としてサウンドの一貫性が強まったんだ。」 「Midnight Child」 は自然にほとばしる青春の熱狂そのもの。「She’s a Myth」や「Don’t Hold Anything Back」で歌われる10代のロマンチックな苦悩は彼らの主要なテーマです。 「若さの何がすばらしいって、全てに対して開かれてることだよ。世界はとんでもなく官能的。何も先入観はいらない。そういった視点から作曲するのがいいって思ったんだ」 曲にも歌詞にもエスケーピズムを感じます。だからこそ『Blue』は傑作。それについてRehofは語っています。 「曲作りをしてるとき確かにエスケーピズムがある。ほんのひとときでも別の世界へ行ける曲を作りたい。それが全てだよ。本当に!」

Sampha(サンファ) – 深い悲しみと自己発見の過程

「生楽器を使って自分なりに何か新鮮な音ができないかと考えると同時に、無駄を排除したごくシンプルな音と、それとは対照的なエレクトロニックな音を組み合わせてみたりもした。」 -  NEOLインタビュー 「たとえばアフリカ音楽とインド音楽の共通点を見つけたり、アフリカ音楽と中国の音楽の類似点がわかったりとか、そうした発見があるから音楽って面白いんだ。」 - ele-kingインタビュー Pitchforkのレビューによれば、 Sampha(サンファ)は5人兄弟の末っ子で、3歳の時父親がピアノを買ってくれた。それはかけがえのないものになったそうです。「(No One Knows Me) Like the Piano」で歌っているように彼のソウルそのもの。 98年に父を肺癌で失くし、2015年9月には母も癌で亡くなった。『Process』のエレクトロ・ソウルから彼の母親の魂を感じるでしょう。またサンファ自身、喉の腫瘤に悩まされたことを「Plastic 100ºC」で歌っています。「不安ととも眠る。腫瘤はいったい何なのか」。 2枚のEPに加えて、フランク・オーシャン、カニエ・ウェスト、ドレイク、SBTRKT、ソランジュらの作品にもフィーチャーされた歌声は確かな存在感があります。穏やかで哀しみをたたえたファルセット。たとえば「Under」では、ジェイムス・ブレイクのようにヒップ・ホップ、トラップ・ビートを自身のものとしています。 アルバム中、最も明るい曲「Kora Sings」でさえ陰を帯びています。母に言及し「ゆりかごからそばにいるあなた」、「あなたは僕の天使、消えないで」と歌う。「Blood on Me」では個人的なトラウマから歩き出す不安を歌う。「僕は今、途上にある。独りで。制御できない」。 アルバムのクローザー「What Shouldn’t I Be?」では子ども時代の幸せな原風景を歌っています。「兄弟に会いたいけど、しばらく帰れない」。しかし冒頭ではこうも歌っています。「いつ帰ってきてもいいんだよ」。

ジュリー・バーン - 正気でない世界で正気を保つこと

26歳のシンガー・ソングライターJulie Byrne(ジュリー・バーン)のセカンド・アルバム『Not Even Happiness』は4年間の旅の集大成です。「Natural Blue」はコロナドの夕陽を描写しているし、「Melting Grid」は太平洋岸の北西部で暮らした日々。 音楽活動にあたって「内なる神を探している」という彼女は「真実の意味で人々とつながりたい」と語ります。 ニューヨークはマンハッタンにあるアメリカ自然史博物館は彼女にとって聖域。 Pitchforkのインタビューで 彼女は深海に棲むタコがバクテリアと共生するさまをインタビュアーに説明しています。 喧噪の街で彼女の歌はハーブの香り、精神安定剤のようにはたらきます。漂泊の末に彼女は昨年ニューヨークにたどり着き、セントラルパークのレンジャーの職に就きました。アヒルを救い出した話、公園の隅で眠るアライグマの親子、様々な木々が植えられた歩道。彼女が語るそういった自然描写は内なる彼女の神の反映かもしれません。 「ニューヨークは冷たい無関心な人々の街だといわれるけど、そうじゃない。みんな寛大で気配りがある。驚きと活気に満ちている。ダンスや演奏を観たり、思いがけない親切を受けた時は特にそう思います。」 と彼女は言うものの、最初の夏、スランプになって一時バッファローの実家に帰ったそうです。「Follow My Voice」はその時たった3日で書いた。アルバムで最も意義深い曲だそう。このアルバムは、人それぞれ違う、自己を超えた何かについて。圧倒的な自然の美、子どもたちの笑顔といったもの。永遠なるものだと彼女は説明します。 「父が弾くギターを聴いて育ったから私の奏法は彼の影響下にある」。父がウエディング・パーティーで演奏していたギターを17歳の時に受け継いだ。そのギターで本作も録音したそうです。 彼女は偉大な詩人たちにも影響を受けています。Leonard Cohenはもちろん、Frank O’HaraやKenneth Patchen、そしてAdrienne Rich。コンサートで配布する詩集も作りたいとか。 Tugboat Recordsより 2017年2月15日に日本盤リリース予定。

栗本薫 / 中島梓 - 過ちや欠点を受容される経験はえがたいもので、そういった相互作用が世界を安定させる

「永遠の子どもであること」は文学、芸術の主要なテーマの一つだと思います。しかしアーティストが、自分自身と仲間達の私的な共同幻想のみを自己の拠り所としたら? 社会全体の共同幻想、というか人としての最低のルールを無視する、いや理解さえしていない、しようともしないとしたらどうでしょうか?  ライトノベルの始祖といわれることも多いベストセラー作家、栗本薫(評論の名義は中島梓)の本を子どもの頃よく読んでいました。 中島梓『コミュニケーション不全症候群』P322 ちくま文庫 (時代の圧倒的な流れに逆らうことはできない、という文脈に続いて) 「だが、自分自身のほうは確実に、変わることが可能である。-それも自分の力によってだ。そのことで、時代と歴史を変えることは出来なくても、時代と歴史の変貌からの圧力に対して抵抗力を保持することは可能だろう。(中略)我々は自分自身であることによってだけ、歴史や時代や社会の強制から自由であれる(中略)。歴史にまきこまれることは避けられないが、歴史に変容させられる必然性はない。時代のなかにあっても、自分自身であり続ける自由をもつこと-ないしそのための努力をすることはできる。(中略) 我々はそのためにまず、自分の置かれている環境がどのようなもので、自分が知らず知らずにかけられている時代と社会からの圧力はどのような種類のものか、そのために自分がどのように自分でなくなっているのか、よく知らなくてはいけない。」 1991年の著書『コミュニケーション不全症候群』において、彼女は、それをいみじくも「大人のずる賢さとエゴイズムを身につけた無責任な子ども」と表現しています。 それは精神医学の見地から云えば、自閉症スペクトラム(発達障害、アスペルガー症候群などを包括する概念)の素因があったうえで、他人の意図を推し量れないまま、わがままに育っていった人類と言い換えることができます。そしてこれは、後に彼女が生み出したタナトス生命体と呼ばれるモンスターに似ています。 タナトス生命体は、彼女の長編伝奇小説 『魔界水滸伝』 20巻に登場します。本作は永井豪『デビルマン』や諸星大二郎『妖怪ハンター』シリーズのオマージュであり、人間、先住者たる妖怪、そして古きものども(クトゥルー神)の3つ巴の戦いが描かれます。 クトゥルー神は本家...

細野晴臣 - 僕のライブは子どもが喜ぶから連れてきてほしい

細野晴臣の名古屋クアトロ公演(2015年6月16日)のレポート再掲載です。 2013年に京都磔磔で観た際は、原発事故に言及したり内省的な印象のライブでした。 今回はまるで若手ミュージシャンのようにはじける細野さんが居ました。 50年代以前のポピュラー・ソング、カントリー、ウエスタン・スイング、ロカビリーを次々に演奏し、映画の影響でジェームス・ブラウンをカヴァーして激しく踊ったり、バンド・メンバーとのかけ合いからも本気で楽しまれている様子が伝わってきます。 「速い曲しかやらない。好きなことしかやらない」と断言してギターをかついで軽快に踊る細野さんはまるでやんちゃな少年のようです。「カヴァーばっかりだね。オリジナルをやってもカヴァーと言われる」とおどけて見せたり。 スティール・ギター、マンドリンなど次々持ち替えて演奏する高田漣に「前日は(名古屋今池の得三で)彼ら3人のステージをこっそり観てた。うまかったんだね。初めて知った。僕、必要ないんじゃない?」と言って困惑させたり。ベースの伊賀航に「忍者じゃないの? だっていつもすぐ消えるじゃない? (君もTV番組の)『ファミリーヒストリー』出なよ」と言って会場中の笑いを誘ったり、ドラムの伊藤大地には「他の2人は10年くらい一緒にやってるけど彼とは6年? 野音で飛び込んできて。本当だよ、ドラムが飛び跳ねてたもん」と回想します。 MCでは名古屋での思い出を軸にコミュニケーションと音楽について様々なことを。知人のヨウジヤマモトと名古屋行きの新幹線で同じ車両にたった2人乗り合わせたのにお互いに一言もしゃべらなかったと。「「僕はちょっと」のセルフ・カヴァーを依頼されて、僕はちょっと、と断ったからかな?」と肩をすくめる。 「名古屋で捕まえたタクシーの運ちゃんが荒っぽくて、僕は小さな声で大きなつもりで抗議した。東京は狭くてちょっとの音で苦情が来るから節分の豆まきも小さく叫ぶ。音楽もそうなんだ。ずっと大きい音を出すバンドが最近多いけど、僕らは小さいのと大きいのとちゃんと差があります」と音圧競争に苦言を呈するようでした。 かと思えば「名古屋でコーヒー飲もうと深夜のファミレス入ったら、後ろで娘さんと楽しそうに話してるおじさんの声がしたんだ。気になって振り返ると独りだった。その向こうで二人連れの女性客が会話し...

UNISON SQUARE GARDEN - Catcher in the Spy

なんといってもサリンジャーを思わせるそのタイトルからの連想で、村上春樹、柴田元幸による対談集『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』と村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読み返してしまった。 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルはブラック・ボックス。意味がわからないままで読者に引き渡すしかないと村上は語り、主人公ホールデンの語りはそれ自体で呼吸しているものだという。社会対個人、大きなシステムに抗う個人という観点よりむしろ、そういった状況下における個人の内面的混乱。それを一気呵成に吐き出すこと。そのリズム、グルーヴ感(すなわち呼吸、あるいは鼓動)こそ、この作品の本質だと語っている。 60年代以降に、社会運動と結びついて受け入れられた文脈(社会の偽善を糾弾して、自分の信念こそ正しいとする)ではなく、社会と折り合いがつけられず混乱して引きこもる僕という観点。それは 「境界性パーソナリティー」 文学から 「自閉症スペクトラム」 文学への視点の転回とも言える。 チャップマンがジョン・レノンを射殺したとき、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいたという。彼は理想から外れ、世俗化するジョンを「自分の願う理想のジョン・レノンであり続けてほしいがために」殺した。ホールデンが純粋さをガラスケースに陳列するべきだと願ったように。 でも、ここで重要なのは、ホールデンは純粋さを保護しようとして(ライ麦畑のキャッチャーであろうとして)果たせなかった。子ども達にさえ裏切られたサリンジャーは山奥の小屋に引きこもる。彼は純粋さをコントロールして支配下に置こうなんてこれっぽっちも考えなかった。しかしチャップマンはそれを実行した。聖書を祭り上げた十字軍が遠い異国で異教徒を皆殺しにするように。その愚行は自分自身さえコントロールできなくなる。いや、永遠に社会から抹殺してしまうのに。 社会と折り合えない違和感、それに伴う混乱が問題なのではない。それを解消するために他者を攻撃しコントロールしようとするか、自分自身を打ちのめし傷つけようとするか。つまり他罰的であるか自責的であるかが問題なのだ。 ホールデンは後者だ。作中で何度も自らをわざと痛めつけようとする。この自傷行為の反復は今ならPTSDの症状(心的外傷、すなわちトラウマ体験の反復)と解釈できる。村上春樹は推測...

OGRE YOU ASSHOLE ~ ありふれた日常を異世界に変えるサウンドトラック

モデスト・マウス、ビルト・トゥ・スピル,あるいは ヨ・ラ・テンゴ, さらにはカンといった多くの先人から影響を受けたかもしれない。しかし OGRE YOU ASSHOLE は単なる真似ではない。彼ら自身であろうとしている。間違いなく日本で最もすばらしいインディー・ロック・バンドの一つだ。しかし彼らは最新作『ペーパークラフト』では、ミニマルでメロウを意図した。最終的に欠落感、空虚な感じに聴こえるようになった。  彼らは幾つかの日本の雑誌に語った。  出戸学(Vo,Gt.)「 無機質なフレーズを繰り返す要素とメロウで叙情的な世界観という相反する要素を結び付けようとした 」。(ギターマガジン2014年11月)   馬渕啓(Gt)「演奏は淡々と、リズム隊は同じ事を繰り返しながらヴォーカルはメロウに」。(ミュージックマガジン2014年11月)   出戸「こういうバンドをやりたいより、こんな作品を作りたい。 全員が作品に奉仕する感じ。 そのためならどの楽器でもやる。例えば、ギターを弾きながら歌とベーシックをとったら、まずギターを抜く。残った音にどんな楽器でアプローチしようかと考えて曲を作りこむ」。(ギターマガジン)   勝浦隆嗣(Drs)「本作はエレキギターは殆ど入っていない。普通はギタリストだったらギターを入れたがるじゃないですか。そういう考えはない。 必要な音を入れる 」。(indie issue2014年11月)   馬渕「色んな音が入っているけど 一つ一つ意味がある 。より曲に合った音を選んでいる」。(ギターマガジン)   出戸「 “ムダがないって素晴らしい” は元はメロウな曲だけど、ビートを立たせて、ボンゴだけ狂ったようにテンション高くて、歌とメロディーは醒めた世界観で。 表現したいことを強めるのではなく真逆の要素を入れる。 着地しない感じ。アルバム全体を通してそんな感じ。歌詞の内容は世界をありのままに表現しているだけ」。(ミュージックマガジン)   清水隆史(Bass)「批判ではなく批評ということ。声高に何かを攻撃したり、おかしいっていうんじゃなくてシニカルに距離をおいて批評する。 だって自分もその一部であることは事実だから。 終わった後、欠落...

イアン・カーティスを想う - 時代を変える才能の功罪

直接間接問わず、ジョイ・ディヴィジョンから影響を受けたアーティストは多い。近年でもホラーズやトーイ、バンド名から分かるアイスエイジ、それにパーマ・ヴァイオレッツやサヴェージズ等、挙げ出せばきりがない。30年以上の歳月を経てなお彼らの生み出した音楽が支持されているのは何故だろう。2008年にはオリジナル・アルバムがリマスター再発されたが、2014年には「アン・アイディアル・フォー・リビング」がリマスター12インチ・レコードとして復刻された。このEPは彼らの初リリース作であり、パンクから彼ら独自の音へ移行する過渡期を捉えている。 中心人物であるイアン・カーティスは、しばしば他人の心情を察することができない代わりに、誰も気に留めないような世界の細部を知り、それを曲のモチーフとした。練習でメンバーが偶然弾いたフレーズから選び取り構成した曲に、ストックしていた断片的な歌詞を乗せる手法で、強烈なインパクトを与える曲を生み出していった。EP1曲目の「ワルシャワ」でイアンは「弱さ、過ち、冷酷な事実、矛盾、全てを見通せる」と歌い、最終曲「フェイリャーズ」では「別の種族であり、唯一の存在」と宣言する。これら勢いのあるパンク・ナンバーの他に、呪術めいたインストが続き、曲の半ばから叫びのようなヴォーカルが加わる「ノー・ラヴ・ロスト」、不穏なベース・ラインが全編をリードし、独裁者の演説のようなヴォーカルが響く「リーダーズ・オブ・メン」が収録されている。 前述の歌詞によれば、イアンは「自分は別の種族であり、他人と異なる感性を持っている」と考えていたのかもしれない。精神病や異端であることに常に深い興味を示した彼の苦悩の根本には「生まれつきこだわりが強く、人と相容れない」、「他人の気持ちを推し量ることができない」ことがあったのではないだろうか。妻、デボラ・カーティスが書いた伝記『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』における彼の言動、行動に関する記述を読むにつけ、筆者は個人的に推測する。イアン・カーティスは自閉症スペクトラムの範疇に入る人物だったのではないかと。彼が選び出す独創的なフレーズ、突飛なライヴ・パフォーマンスはその特性に起因するものだったのかもしれない。そしてその特性は様々な日常生活上のトラブルをも招いた。(自閉症スペクトラムは、あくまで特性であり、その程度は千差万別、本...