「永遠の子どもであること」は文学、芸術の主要なテーマの一つだと思います。しかしアーティストが、自分自身と仲間達の私的な共同幻想のみを自己の拠り所としたら? 社会全体の共同幻想、というか人としての最低のルールを無視する、いや理解さえしていない、しようともしないとしたらどうでしょうか?
ライトノベルの始祖といわれることも多いベストセラー作家、栗本薫(評論の名義は中島梓)の本を子どもの頃よく読んでいました。
中島梓『コミュニケーション不全症候群』P322 ちくま文庫
(時代の圧倒的な流れに逆らうことはできない、という文脈に続いて)
「だが、自分自身のほうは確実に、変わることが可能である。-それも自分の力によってだ。そのことで、時代と歴史を変えることは出来なくても、時代と歴史の変貌からの圧力に対して抵抗力を保持することは可能だろう。(中略)我々は自分自身であることによってだけ、歴史や時代や社会の強制から自由であれる(中略)。歴史にまきこまれることは避けられないが、歴史に変容させられる必然性はない。時代のなかにあっても、自分自身であり続ける自由をもつこと-ないしそのための努力をすることはできる。(中略)
我々はそのためにまず、自分の置かれている環境がどのようなもので、自分が知らず知らずにかけられている時代と社会からの圧力はどのような種類のものか、そのために自分がどのように自分でなくなっているのか、よく知らなくてはいけない。」
1991年の著書『コミュニケーション不全症候群』において、彼女は、それをいみじくも「大人のずる賢さとエゴイズムを身につけた無責任な子ども」と表現しています。
それは精神医学の見地から云えば、自閉症スペクトラム(発達障害、アスペルガー症候群などを包括する概念)の素因があったうえで、他人の意図を推し量れないまま、わがままに育っていった人類と言い換えることができます。そしてこれは、後に彼女が生み出したタナトス生命体と呼ばれるモンスターに似ています。
タナトス生命体は、彼女の長編伝奇小説『魔界水滸伝』20巻に登場します。本作は永井豪『デビルマン』や諸星大二郎『妖怪ハンター』シリーズのオマージュであり、人間、先住者たる妖怪、そして古きものども(クトゥルー神)の3つ巴の戦いが描かれます。
クトゥルー神は本家ラブクラフトのような人智を超えた存在ではありません。代わりに絶対に理解不可能な存在として登場するのがタナトス生命体です。
自分以外の他者の存在を認識できなくなり、大人の責任を果たさず、子どものようなエゴイズムのみ肥大させ、結果的に自らも他者もタナトス(フロイトの云う、人間の無意識にある死への志向性、戦争が起こる原因)へと引きずり込む。
タナトス生命体は無限に近い数で襲来し、全宇宙の生命の根源であるエロスを破壊しようとします。一体一体は弱いが途方もない数の暴力で、クトゥルー神すら消滅させてしまいます。驚くべきことにその死骸を調べると、はるか超未来からやってきた人類らしい。
この物語の後半では、物質世界(人間の住む現世)と精神世界(先住者の棲む魔界)の表裏一体の関係が途切れ、物質世界は自らの影たる魔界(これは生きる拠り所となる宗教や道徳の源泉です)を失って漂流していくのですが、その行き着く先こそが……。
これは村上春樹『1Q84』で描かれた人々の集合無意識「リトル・ピープル」に近いかもしれないし、坂本慎太郎が最近のソロ作で歌う光景かもしれません。巨大なシステム、人間性を隔てる途方もない壁に打ち砕かれ、神々から切り離され、自分固有の意思をもたないゴーストとなってしまった大衆。
栗本薫は少女時代に、母との葛藤から摂食障害を患っていたそうです。
彼女が描いた130巻以上に及ぶヒロイック・ファンタジー『グイン・サーガ』では、異形の豹頭の戦士グインが旅の途上で数多くの大人になれない苦悩する人々と出会い、最終的に、彼を異世界に放逐したマザー・コンピューターと再会します。愛ゆえに彼を支配し束縛しようとした神と戦わなければならない(このマザー・コンピューターとは直接的に彼女の母親のことでしょう)。
栗本薫の作品世界は大きく三つに分かれます。異世界を舞台にしたグイン・サーガ、魔界水滸伝などの魔界サーガ、そして名探偵伊集院大介らによるミステリー、あるいはLGBTや芸能界が主題となる東京サーガです。最後の一角、東京サーガである『仮面舞踏会 伊集院大介の帰還』では、摂食障害が謎解きの重要ポイントになっていました。
1995年というかなり早い段階で本作では、現代のソーシャル・ネットワーク文化のなかでますます肥大する闇、つまり、誰もがアイドルになり愛されたい一方で、パソコン・ディスプレイの前で密かに友人を陥れる人々の増加を予言しています。当時は単純なチャットしかできないパソコン通信だったゆえに、現代のtwitter、facebook文化と全く違和感なくシンクロします。
作中で、摂食障害で見るも無残にやせた女性と、実は太ったオタクだがチャット上では魅力的な美少女を演じる男が描かれます。その太ったオタクは殺人事件に怯えたふりをしながら、実はパソコン通信のチャット上で摂食障害の女性に「死ね」というメッセージを送り続け自殺させていたのかもしれない、という推測が最後に提示され、徹底的に無残に後味悪く終わります。
現代社会において我々は誰もがオタクに、あるいはタナトス生命体になりうる。そして被害者たる摂食障害の女性は作者自身であり、読者である少女たちの映し鏡。
『コミュニケーション不全症候群』において、摂食障害の少女達は「美しくあれ、男の従属物たる女であれという絶対的なレース、あるいは奴隷市場にさらされ、際限ない過食と拒食を繰り返している」と説明されています。
その世界から逃避する手段の一つが、女でもなく暴力的な大人の男性ではない少年同士の愛を描く小説、漫画の類であると論じられます。中島梓(栗本薫)本人がそういったプレッシャーに曝され苦しんできた当事者であり、JUNE、ボーイズ・ラブ、LGBT物のライトノベルの開祖ですから。
LGBTを主題とした小説だけではなく、他の物語も含め、彼女の想像力(妄想)が生み出した箱庭世界こそ、彼女が彼女の力だけで作り出した防壁だったのでしょう。それは親や社会の従属物ではないから。
村上春樹が『ダンス・ダンス・ダンス』において「人間は心底では殺しあうのが好きで、それから逃れるには別の世界に逃げるしかない」と羊男に語らせたのを思い出します。
栗本薫の初期SF作品『レダ』のヒロインもやはり摂食障害とLGBT、そして境界例(パーソナリティー障害)を思わせる描かれ方をしています。決して美しくないが魅力的な彼女は、最終的に別の世界(彼岸)へ逃避します。その先はある意味、母の胎内と同じであり、全能感への回帰。
レダは幼児期に母親、あるいはそれに代わる存在との幸せな関係、基本的信頼の構築が果たせなかった。それゆえに社会からの同調圧力、「美しく誰からも好かれ愛される存在でなければならない」に押しつぶされる。わがままに自由に振舞えず、自分を愛することができなければ、当然、他者を本当の意味で愛することもできない負のスパイラルに絡め取られていきます。
ニーチェを指してでしょうか。かつてセックス・ピストルズ/P.I.L.のジョン・ライドンは「俺達はみな精神病院で死ぬだろう」と言いました。この世界自体が巨大な精神病院なのかもしれないと。同様のことを芥川龍之介は晩年、「河童」で描き、「地上に上る梯子が欲しい」という意味の句を残しています。彼の魂は既に彼岸にあり、ついには地上の生活に適応できなかったのかもしれません。
そういった時代と社会の圧倒的な力から逃れるために、冒頭に引用したことを実践するために、何が必要なのでしょうか。当たり前だけれど、支え合う仲間がほしい。自分の価値を認めてくれる、包み込んでくれる存在。
決して閉じられていない、集団自決ないし外の社会との全面戦争に向かわないだけのユーモアと客観性を含む、しかし独自なコミュニティー。
栗本薫のSFは、そういった世界の実現可能性を描き続けていたように思えます。
栗本薫の生前、特に初期の作品はしばしば呪詛のような響きをたたえています。しかし彼女の死後2013年に発表された、息子ために書いた童話集『いつかかえるになる日まで』は少し違いました。日の目をみるはずではなかった作品ゆえに、愛する息子のためにと客観化されたがゆえに、彼女の最も美しい部分が結晶しているように思えます。
人より成長の遅いおたまじゃくしは、兄弟や友達がみなカエルになって飛び出していくなか、一人ぼっちの恐怖にさらされる。しかし水槽の水を替えに来たママ(彼の世界では神に等しい存在)は告げる。
たまおくん ひとりになっちゃったね
でも それでいいのよ
だれにでも みんな それぞれの ときというものがあるの
そして それはひとつではないのよ
そのときが こないうちは
だれも むりをしては いけないの
(中略)
おかあさん
いつか ぼくも
りっぱな かえるに なれるのかしら
なれますとも
彼女と母親の間にどんな確執があったかわかりません。そして、今思えば、ですが、この作品が書かれた1988年前後を境に、彼女の作品はしだいにその先鋭さを失っていったようです。
ひとがひとを愛することは、決してその優れた才能ゆえではない。過ちや欠点を受容される経験はえがたいもので、そういった相互作用が世界を安定させます。