『小型哺乳類館』トマス・ピアース 著 真田由美子訳 |
トマス・ピアース(Thomas Pierce)の処女短編集を読みました。1982年サウスカロライナ州生まれ、バージニア大学創作家卒、全米図書協会の「35歳未満の注目作家」に選ばれています。
『中国行きのスロウ・ボート』を読み返したくなりました。初期の村上春樹を思い起こさせるヴォイス(文体)。簡潔にして普遍、日常にして奇妙な異世界。
アメリカの公共ラジオ局NPRで5年間プロデューサーを務めた経歴ゆえか、ヴァン・モリソン(Van Morrison)を子守唄に口ずさんだり、随所にロックの固有名詞が挿入される辺りも嬉しいけれど、何より不思議なメタファーの使い方が秀逸。聖書的世界観と現代社会の在りようの奇妙な”ねじれ”に根ざしています。
TVのヴァラエティー番組で蘇ったクローンのマンモス。それを息子に頼まれて飼育するはめになるお婆さんの話(「シャーリー・テンプル3号」)、恋人の夢の中でまざまざと息づく人物を探す内に人間関係が錯綜してしまう「実在のアラン・ガス」、愛人との間にできた息子にまつまる嫉妬とかすかな希望(「未だいたらぬフィーリクス」)、恋人の息子との確執と絶滅危惧種の猿にまつまる小品で表題作「小型哺乳類館」、死んだ弟が未知のウイルスの感染源であり国家間を船で移動する「追ってご連絡差し上げます」などなど。
言い表しがたい孤独、寂寥、虚無感と、周囲で渦巻く人々の思惑。共時的に進行していくものごとは、結論を断定しないからこそ、後味が尾を引きます。自分もかつてこんなことを体験したかもしれない。あるいは全く無関係かもしれない。
2018年1月に初の長編『The Afterlives』が上梓されました。
『SOLO』ラーナー・ダスグプタ著 西田英恵訳 |
母親、恋人、そして大切な親友への想い。科学への情熱、音楽への憧憬。主流でないこと、世界を動かすこと、誰かを愛すること、愛されること、安心して甘えられること。もし彼が(彼女が)生きていたら。母さんに甘え(を支え)ることができていたら。たくさんのifの物語。
イギリス・カンタベリー生まれのインド系英国人作家ラーナ・ダスグプタ(Rana Dasgupta)による2部制の長編小説です。第1部が現実、第2部が白昼夢の世界を描いたという意味では村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を連想させるし、第2次世界大戦や9.11テロといった史実を織り込みながら社会の変遷と、それに翻弄され、時にあらがう人々を描く手法は浦澤直樹『ビリー・バット』に似ています。
「ブルガリア出身のグローバル・ミュージック・スーパースターを作っていただきたいのです。(中略)この世界を牛耳っている人々はあまり博識ではありません。我が国の歴史を学ぶ根気はありません。理性に訴える議論では注意を引くことはできません」(P300)
第1部が後悔と現実についてだとしたら、第2部は現実を打倒する理想について。でも白昼夢の世界だからってご都合主義ではすみません。
第2部で登場するミュージシャンは音楽の力で世界を席巻します。しかし、その姿は第1部からさかんに言及される実在の科学者アルベルト・アインシュタインと重なります。世界を動かすような巨大な力は、同時に本人を、周囲の人々を蝕み続けます。
「ただの夢だってことを」ウルリッヒは言う。「ああ、知っている」。でもそこで終わらせるわけにはいかない。「これは夢だ、でもただの夢じゃないよ、クララ。人生は実体験だけじゃない。もっとずっと大きなものなんだ」。彼はかつてない情熱をこめて話す。「人生はある場所である時間に起こる。でもそこから大きくはみ出たものがある。それをしまっておく場所は夢以外にないんじゃないか?」(P388)
『死体展覧会』ハサン・ブラーシム著 藤井光訳 |
ナイフはこの国の恐怖や殺人、そして残虐さの象徴ではないか(「アラビアン・ナイフ」P113より)
イラク出身フィンランド在住のハサン・ブラーシムによる短編集は、亡命作家が現実と虚構を織り交ぜて、イラクの現状を、暴力と殺戮の嵐を描き出す悪夢です。
戦争や圧政に憤る作家には大きく分けて二通りの表現方法があります。現実を憎み、それを打倒する大きな力を、希望を描くか。むしろ現実を、絶望を詳細に描写し続けることで、ごくわずかにある希望の輪郭をなぞるか。ハサン・ブラーシムは後者かもしれません。
若い歌手が新しいスタジオでそれを歌って録音したいと言ってきたけど、僕は断った。曲は父さんが自分で歌ったままにして、この物語の証拠として残しておかないとね。(中略)人々はこの物語の出来事をすぐに忘れてしまう。君がこうした話を語っても、しばらくすればみんなから空想の産物だと思われてしまう(「作曲家」P134より)
最も優れた物語とは、最も恐ろしい物語でも最も悲しい物語でもないのだと説明した。重要なのは真に迫っているかどうか、そして語り口なのだ。必ずしも戦争や殺人の話でなくてもいいのです(「ヤギの歌」P141より)
『誰でもない』ファン・ジョンウン著 斎藤真理子 訳 |
時代の喪失感を、ファンタジーと現実が交差する物語で描き出す。韓国の女性作家ファン・ジョンウンの短編集『誰でもない』を読みました。
「上京」でオジェという青年が語る、子どもの頃の壁抜けの体験。「ヤンの未来」で本屋の地下に広がる巨大トンネルに消えた(と語り手が空想する)少女。なんでもない現実が、ふいに、一足飛びにファンタジーの陥穽に落ち込みます。
「上流には猛禽類」で語り手が感じた死の予感は、国家の衰退、自分の親世代の経験、そして自分の未来への警鐘でもあったのかもしれません。
「ミョンシル」の語り手は、パートナーを失った(おそらく)認知症の女性で、一人称で記憶障害・見当識障害を描写するこの作品は不思議な余韻を残します。彼女がパートナーから受け継いだ物語は、読み手の中で生き生きと展開されるでしょう。
淡々とした物語、語り口ですが、ときに激しい怒り、どうしようもない虚無、絶望がストレートに表現され、読み手に迫ってきます。読後感は悪くありません。自分のこと、隣人のこと、世界のことを考えてしまいます。