なんといってもサリンジャーを思わせるそのタイトルからの連想で、村上春樹、柴田元幸による対談集『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』と村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読み返してしまった。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルはブラック・ボックス。意味がわからないままで読者に引き渡すしかないと村上は語り、主人公ホールデンの語りはそれ自体で呼吸しているものだという。社会対個人、大きなシステムに抗う個人という観点よりむしろ、そういった状況下における個人の内面的混乱。それを一気呵成に吐き出すこと。そのリズム、グルーヴ感(すなわち呼吸、あるいは鼓動)こそ、この作品の本質だと語っている。
60年代以降に、社会運動と結びついて受け入れられた文脈(社会の偽善を糾弾して、自分の信念こそ正しいとする)ではなく、社会と折り合いがつけられず混乱して引きこもる僕という観点。それは「境界性パーソナリティー」文学から「自閉症スペクトラム」文学への視点の転回とも言える。
チャップマンがジョン・レノンを射殺したとき、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいたという。彼は理想から外れ、世俗化するジョンを「自分の願う理想のジョン・レノンであり続けてほしいがために」殺した。ホールデンが純粋さをガラスケースに陳列するべきだと願ったように。
でも、ここで重要なのは、ホールデンは純粋さを保護しようとして(ライ麦畑のキャッチャーであろうとして)果たせなかった。子ども達にさえ裏切られたサリンジャーは山奥の小屋に引きこもる。彼は純粋さをコントロールして支配下に置こうなんてこれっぽっちも考えなかった。しかしチャップマンはそれを実行した。聖書を祭り上げた十字軍が遠い異国で異教徒を皆殺しにするように。その愚行は自分自身さえコントロールできなくなる。いや、永遠に社会から抹殺してしまうのに。
社会と折り合えない違和感、それに伴う混乱が問題なのではない。それを解消するために他者を攻撃しコントロールしようとするか、自分自身を打ちのめし傷つけようとするか。つまり他罰的であるか自責的であるかが問題なのだ。
ホールデンは後者だ。作中で何度も自らをわざと痛めつけようとする。この自傷行為の反復は今ならPTSDの症状(心的外傷、すなわちトラウマ体験の反復)と解釈できる。村上春樹は推測している。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はサリンジャーの戦争体験を反映した作品。そこからの回復の途上を記録したものだと。
ー 人生を、そして世界を俯瞰する Catcher in the Spy -
まるで街を破壊しながら突き進む重戦車のよう。つんのめるように曲調を変えアクセントを加えながら疾走するハード・ロック・ナンバー、アルバムのリード曲「天国と地獄」のことだ。“札束と談合”“容疑者と裏切り”といった歌詞で、社会の矛盾にフラストレーションを叫びながら、彼らはしかし“大人をなめるなよ”とも歌う。続く軽快なファンク・チューン「instant EGOIST」では世界は本来僕らのものなのだと高らかに宣言する。それは彼らが一貫して放ち続けるメッセージ。そんなUNISON SQUARE GARDENの音楽は10代20代の若者だけでなくて、30過ぎの私の胸も熱くさせる。いったい何故だろう。
小規模なライヴハウスで演奏していた頃から、彼らのライヴでは実際、50がらみの男性の姿もちらほら見かけた。ホール・クラスの箱で演奏するようになった今でもそう。ベース田淵智也の父が足を運ぶこともあるという。そんな父の世代の音楽は作詞作曲を手掛ける田淵に影響を及ぼしたかもしれない。田淵はアニメ・ソング好きを自認しているが、彼の幼少期に流れていたアニメ・ソングは洋楽、70年代プログレッシヴ/ハード・ロックから80年代エレ・ポップ/ニュー・ウェイヴ、果ては90年代ミックスチャー/ハード・コアからもアイデアを借用している。そういった優れた音楽のエッセンスを、田淵は無意識の内に抽出して血肉化したのかもしれない。前作『CIDER ROAD』ではストリングスも取り入れ、分かりやすいポップスの見本を提示した。懐古的でキャッチ―な、すなわち広い世代のハートをつかむ極上のメロディー・ラインと鉄壁のリズム隊、ゆえに私は彼らに惹かれ続ける。そう結論づけることはたやすい。しかし、そんな単純な問題ではない気もするのだ。彼らの音楽性、アティチュードについてもう少し考えてみる。
ROCKIN’ON JAPAN 2014年10月号のインタビューで語っているように、彼らはデビュー前から楽曲のストックが無数にあったという。また、前作は自分たちの本質ではなかったし、新作は“売れるっちゅうパスポートを捨ててしまっている”とも。こういった不敵な言動から、アメリカはミネアポリス出身、孤高の天才アーティスト、プリンスを私は連想した。楽曲のストックは無尽蔵、ときに既存のレコード会社の体制に反旗を翻す彼は、ソウル・ミュージックにギター・ロックの要素を加えた独自のファンク・ロックを創り続けている。そのプリンス同様に、親しみやすいメロディーが一筋縄ではいかない複雑で奇妙な、しかしストイックなリズムに乗っかるのがUNISON SQUARE GARDENの音楽性の基本。歌謡曲のようでポスト・ロックな変拍子を多用、しかし難しく聴こえない。必要とあればハード・ロック、ファンク、ヒップホップの要素、果ては60年代オールディーズの雰囲気も巧みに取り入れる。ライヴにおいては、ジャジーな即興や、シューゲイザー、エレクトロ的なノイズを随所に挟み、音の解体、再構築をおこなう。鈍いゆっくりとした歪みから解き放たれ、美しいメロディーが鳴らされる瞬間の気持ちよさといったら!
そんな彼らの音楽がとっちらかされた雑多な印象を与えないのは、楽曲がそれぞれの方向へ拡散するのを押さえて束ねている何かがあるから。おそらくは彼らの精神性。それは今年久しぶりの新作をリリースした元ザ・スミスのモリッシーが抱く衝動と近いものかもしれないと個人的には思う。イギリスの国民的アーティストである彼を突き動かすのは、この世界に大規模に流布する価値観に対する反発、いや単にそこに溶け込めないだけかもしれない。自分が生きるために他の動物や人間を犠牲にすることを厭わないような現代社会に馴染めるほうがおかしいのだ。歌詞ではっきり主張する部分以外からも、行間から、メロディーやリフの隙間から伝わってくる。そう、それこそ私がUNISON SQUARE GARDENの音楽を聴き続ける理由でもある。ロック・バンドであろうが時流に合わせて器用にモデル・チェンジするのが昨今のスタイル。ヒップホップを取り入れよう。EDMがナウいって? いや今、日本ではシティ・ポップがリバイバルしているんだ! あぁ!? そんなの知るか、“流行らないのはもうわかってるよ”(「流れ星を撃ち落せ」)。
また、本作のタイトル、そして冒頭とラストの2曲に、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』をもじったような題名をつけてコンセプチュアルに見せているのは、読書家の田淵らしい計らいだと思う。もうすぐ20代の終わりを迎える彼らが、なお青春の輝きを忘れないという意思表示とも受け取れる。しかし先述のインタビューで田淵は“単純に、このアルバムに一貫性がありますよっていうヒント出しです。今回伝えたいメッセージとか高尚なテーマとか、一切ないアルバムになってるので”と言い捨てている。でもミュージシャンのこういった発言を鵜呑みにしてはいけない。たいてい逆で意味は深いのだ。言いっぱなしのマシンガン・トーク、様々な情報がこんがらがって詰め込まれすぎて、深い森に迷い込んだかのよう。“あのね歌詞書いたの僕じゃないんで 田淵に言っておいて”(「蒙昧termination」)とヴォーカル/ギターの斎藤宏介に叫ばせるあたりも洒落が効いている。曲が全て、聴けば分かるだろ? 話すことなんて実はない。ならばそれを逆手にとって勝手に推理してしまおう。
例えば「メカトル時空探検隊」。この曲はファースト・アルバム収録曲「デイライ協奏楽団」を思い出すヘンテコな、しかしどこか優しいリズムで、おまけに他の曲ほど分厚いギターが被ってくることはない。スリー・ピースで最小限の音数。彼らの個性が最も分かりやすい曲。実際、彼らはいつも無駄な音は抜いて今響かせるべき音を際立たせるのだ。ところでこの曲の一節を田淵はこう書いた。“だからタイムマシンでふらっと行く 君の街までふらっと行く ポンコツでも 無様でも 操縦ができれば OK OK“。ふらっと行くのだから行き先は既知の過去だろう。はたと気づいた。彼らの歌詞の多くは、実は現在から過去を見つめる視点で綴られていたのではないか。少なくともこの曲の主人公はヒロインに会うために過去へ遡らなければならない。本来は不可能な芸当、つまり彼は遅れてきたヒーローであり、実際の史実においては恋人を救えなかったのかもしれないのだ。だから「メカトル時空探検隊」を発明した。曲がタイムマシン。この曲が私たちの家で再生され、あるいはライヴ会場で鳴らされる瞬間、その場に居る一人一人が抱く悔恨は一つ一つ浄化されてしまう。老若男女全ての人の心に響くマジック。UNISON SQUARE GARDENの楽曲は少年少女ではなく常に大人の視点で奏でられる。社会の矛盾を糾弾するモラトリアムの側ではなく、世界中にはびこる過ちや矛盾は、実は自分たちの責任でもあるという立場から歌詞を綴る。だから“大人をなめるなよ”(「天国と地獄」)なのだ。3.11の震災を経て、我々の生きるこの世界こそ天国、あるいは地獄なのかもしれない。
また、彼らの演奏、そのアンサンブルは正に時代のヒーローのように堅固だが、それでも彼らは“ポンコツでも 無様でも”と歌う。ギターを休めた斉藤がMCであえて3枚目を気取って笑いを誘うように、彼らの紡ぐ世界観は決して高みに昇って聴衆を見下ろしたりするものではない。ベースを振り回しステージを縦横無尽に暴れ回る田淵もただ暴れているわけではない。客一人一人を丸ごと受け止めようとする心意気を感じさせて余りある。全身全霊で曲芸のようにスティックを回してドラムを叩き続ける鈴木貴雄も含めて、彼らは小規模のライヴハウスで演っていた頃の精神性を忘れてはいない。だから自分たちを無様でポンコツだなんて言えるのだろう。
アルバムを締めくくるラストの「黄昏インザスパイ」では“黄昏健忘症”という造語が登場し、忘れること、そして死のイメージが歌われる。Mr. Childrenの大ヒット曲「名もなき詩」を連想させる一気に歌い切るメッセージ性の強いパートや、スピッツを彷彿とさせる叙情的に流れるメロディーでマスクされてはいるけれど、そのテーマは暗く重い。この曲から私はSF作家円城塔の「良い夜を持っている」という中篇小説を思い出した。その作品で語られる父親は特異な存在だ。驚異的な記憶力が災いし、大量に脳に詰め込まれた情報量のなかで立ち往生、過去、現在が混乱し時空が歪んだ異世界に生きている。世の常の人と会話が通じない。常識も歪んだ世界で彼は妻を探し続ける。最終的に彼は息子の協力を得て、記憶力を殺して大量の情報を抜く、つまり「忘れる(健忘)」ことによって黄昏どきの世界で妻と再会する。彼女はいう、「ようやく忘れることができたんだね」と。円城塔の小説は難解だといわれているが、私にはなぜかシンプルなラヴ・ストーリーに読めた。UNISON SQUARE GARDENの音楽も同じで、青春から黄昏まで幾つもの世代にまたがる恋物語、つまりそれは人生そのもの。すると、冒頭の「サイレンインザスパイ」が子どもたちのはしゃぎ声ではじまるのは至極当然なのだ。
UNISON SQUARE GARDENの2014年作「Catcher in the Spy」について書いたテキストを再録。